なんの変哲もない日

この田舎の犬は都会で死ぬかもしらん

映画『詩人の恋』感想

ネタバレあります。


映画『詩人の恋』予告編

良かった。人生のなかで忘れたくなるような失態、人間関係の行き詰まりや断絶の瞬間を見事に切り取っている。登場人物がしばしば言いすぎるけど、「いくら何でもそんなひどいことは言わないでしょ。いや、この状況なら言うかも」というぎりぎりを攻めてくるのが凄い。ただ、現実世界ではたまにしか起きない最悪の場面が走馬灯のようにくりかえされるし皆が自分勝手なので、きつい映画である。ポスターや公式サイトから受けるイメージよりだいぶきびしい。

とくに良いと思った点は2つある。
まず、この手の設定で予想される「一時の気の迷いはあれ、やっぱり不倫の恋より夫婦愛が本物だよね」という結末ではなく、愛そのものの不安定さを表現していること。たしかに、主人公のテッキは最終的にセユンと別れ妻ガンスンと子供を選んだ。しかしそれは、セユンへの恋心が表面的なもので、一途に想ってくれる妻の純粋な愛こそ本物だと気づいたからではない(たぶん)。序盤では強い結びつきがあるように見えた夫婦関係が、中盤になると違った様子を見せる。妻は夫の淡い恋に気づきながら愛情をもって許していたというより、夫が最後は自分のところに戻ってくるとたかをくくって寛容な態度を取っていたのだと思う。
テッキが自分や生まれてくる子供を見捨てるかもしれないと思ったとたん、妻は怒りを爆発させる。稼ぎなし種なしの男を誰が養ってやったと思ってるんだ、というような調子で積年の不満をぶつける。今感想を書いていて気づいたけれど、妻から夫への性的・経済的DVにも見える。それに、妻が必死になればなるほど、彼女が必要としているのはテッキその人ではなく、「夫」「父親」の役割を果たしてくれる存在ではないかと思えてくる。
しかし、相手を心から唯一無二だと認め合える人間関係がどれだけあるだろうか。テッキがセユンに恋をしたから夫婦関係のいびつさがたまたま露呈しただけであって、この夫婦が特別に険悪だったとは思えない。何にもない日常が続いていたなら見過ごすような小さなほころびを顕在化させ、テッキに「こんな関係は間違ってる」と言わせる展開はどこまでもするどい。
二つ目に、あしながおじさん的な展開に潜む気持ち悪さを描いていること。映画『糸』の感想記事)を読んでもらえばわかるように、経済的援助込みの年の差恋愛にかなり抵抗がある。というより、そこにある性的搾取の危険や力関係、そもそも若者が恋愛目的で近づいてくる個人に援助を受けざるをえないことの問題性を無視する作品は好みじゃなくて。

komeuso.hateblo.jp

なんだかんだ年の差恋愛物は好きだけど、「愛があれば年の差なんて関係ない」と安易に言いたくはないという厄介な心持ちがある。『詩人の恋』はそういう人間関係の不均衡を直視している。
正直言って、「恋愛経験の少ないおじさんがオム・ファタール的な屈託のない美青年にもてあそばれてフラれる」ほうが映画としては断然見やすいし気楽だ。といっても、映画『ピアニスト』を思い出すとそれはそれで辛そうだけど。
『詩人の恋』はセユンも訳ありの愛に飢えた貧乏な青年なのでますます辛い。しかも貧乏な理由は病身の父親にあるようで、母親は介護疲れや経済的な苦労で参っているのか、がめついし冷たい。セユンは家庭から目を逸らしたいのか夜中まで友達を引きとめて遊びたがるけど、「変な奴」と怪しまれて「孤児」とあだ名されてもいる。そうした状況でドーナツ屋の常連テッキと知り合い、介護に必要な物をもらったり一緒に出掛けたりし始める。セユンはテッキの好意に何となく気づいていて、それが同情であってほしくないと思っている。下心があるテッキは罪悪感を抱いて会うのを止めようとするが、セユンは「もてあそぶなよ!」と怒る。セユンのテッキに対する気持ちって何なんだろうと考えたけど、やっぱり愛情を注いでくれる親を欲する気持ちの延長なのかな。テッキの奥さんに「家族は無条件に何でも許せる。私とテッキは家族なの」という説得を受けて、「俺もそういう家族が欲しい」と言い返していたから。
セユンはテッキにお金をせがんだけど、本心では「俺たちはそういう関係じゃないだろ」と怒ってほしかったのかもしれない。「金くれよ」と「一緒に行こう」という言葉の裏にある気持ちは何だったのか、セユン本人もはっきりしていないのかも。
何より終盤に二人が再会したときの「俺も君を利用していた」というテッキのセリフが好き。何となくいい思い出だったね、という雰囲気が漂う中でのこのセリフ。テッキが最後にあげたお金は、とっさに「えっ慰謝料?」と思ってしまったけど、どんな意味があったんだろう。色んな問題がはっきり解決しないまま何となく時が過ぎていくのにもやもやしたけれど、そこがいいところでもある。