なんの変哲もない日

この田舎の犬は都会で死ぬかもしらん

眠れない夜に雑感

在宅勤務などで年末年始の不規則な生活を引きずり、そもそも不眠症なのもあって、まあ眠れないこと。目を閉じて耐えていればいいのだけれど、ツイッターのお気に入りのアカウントを見に行ったりピンタレストをぼんやり見たりして夜ふかししている。
一昨年やめたツイッターを昨年再開し、半年ほど続けたけれど年内に辞めた。上記のように、ツイッターのアカウントを持たないで好きなアカウントの呟きを見に行くのは手間がかかるけど、私にはそれぐらいがちょうどいい。
ツイッターの何が苦手なんだろうと考えてみた。特定のユーザーがどうというのではなく、そのシステムや主だった特徴のなかに、苦手なものがあるらしい。ここからは思考の途中という感じで、いつもにまして感覚的な文章になることご容赦ください。
たぶん、消費の流れが速すぎることや、人間の一部分をエンタメ的に消費することが当たり前に、軽率に行われやすいこと、アカウントの背後にいる人間への配慮が希薄になりやすいこと。これらが私にはグロテスクに思えるんだろう。
たとえばあるツイートが沢山RTされてて、面白いこと言うなあと思ってその人のアカウントを見に行ったら、とんでもない暴言を書いていたり。また逆に炎上しているアカウントを見に行ったら、フォロワーもそんなに多くなく、ひとりごとのように呟いた1ツイートが袋叩きに遭っていたり。質問箱で、どんな人生を送ってきた人なのか、今どんな状態なのかわからない匿名の他人の相談に厳しい言葉を返してバズっている人がいたり。何気ない私生活の写真がおしゃれだ、美人だと大量にRTされたり。良い人生訓や著名人の格言がバズったり。とんでも恋愛をした人の心の叫びが拡散されたり。
たしかにそうして回ってきたツイートの中には、新しい発見や感動もあり、楽しい。他人の人生はあくまでも他人の人生で、自分のことのように深く考えることはできないし、たぶんそうする必要もないだろう。そうしたらきっと疲れてしまう。でも、ツイッターではあまりにも目まぐるしく色んな人の生活やら日々の所感やらが流れてきて、どこかフィクションを見るように消費している自分がいて、なんだか人をモノ扱いしているような気がしてくる。それは「愛の不時着の二人ほんとに付き合ってるんだ。お似合いだな、うれしい!」という気持ちの後におとずれる、「人の恋愛について「応援できる二人!」とか「この二人なら許せる」「この相手はなんか嫌」とか言う私たちって何なんだ」という感情に似ている。
ノンフィクションの本やブログ、著名人のインタビューなどを読むときもどこかで他人の一部をエンタメとして消費しているのだろうけど(そうした要素がゼロになる場面は多分ない)、ツイッターよりも流れがゆるやかで、過剰ではないように思う。少なくとも私のなかで罪悪感を覚える割合は低い。
要するに、ツイッターでは個人の人生の一部があまりにも頻繁に、悪意なくエンタメとして消費され、すぐに飽きられる。個人が自由に発信できるようでいて、むしろ個々の人間性は軽視されやすい構造なのではないか。
そんなふうに感じるから、たぶんツイッターをやると疲れてしまうのだろう。たとえば私がとんでも恋愛をしたり人生に関する名文句を思いついたりして表現したいと思っても、それをツイッターに書いてバズりたくはない。大量のRTといいねをもらって、私のプロフィールや他のツイートを読みもしない人、私のこれまでの人生を想像もしない人から称賛や誹謗中傷、お叱りのコメントをいただきたくはない。たとえば私が悲しい経験から立ち直った話を書けば、誰かにとっての慰めになるかもしれない。実際、そういう貴重な経験を共有している方のツイートに慰められたことは何度もある。でも140字の呟きが一人歩きする危険のあるツイッターで、自分にとって大事なことを書こうとはどうしても思えない。これはツイッターに対してかなりネガティブな考え方ではあるのだけど、とにかく、今はそう思う。
とはいえブログの記事も万一バズってしまうと同じような状況になりそうなので、ひっそり書いていきたい。(先日、かなりプライベートな記事が結構読まれていることに気づき、恥ずかしくていったん非公開にしました。)