なんの変哲もない日

この田舎の犬は都会で死ぬかもしらん

1月の徒然草

モトーラ世理奈の「いかれたBaby」を聴きながら、あれこれ所感を書く。

いかれたBaby

いかれたBaby

この曲どこかできいたことがあるような、と思ったらFishmansのカバーらしい。フィッシュマンズ自体は名前しか知らなかったけど、どこかできいたのかも。「悲しいときに浮かぶのはいつでも君の顔だったよ 悲しいときに笑うのはいつも君のことだったよ」「人はいつでも見えない力が必要だったりしてるから 悲しい夜を見かけたら君のことを思い出すのさ」というやさしい歌詞がモトーラちゃんの声と合ってて好き。
この曲を聴きながらなんとなく記憶と人の感情について考えていた。最近ドラマを見ているときに、とあるちょっと好きな芸人さんに似てるなと思うかっこいい人がいた。でも改めて好きな芸人さんと見比べてみるとそんなに似ていなかった。多分、記憶の中で好きな芸人さんを少し美化していたと思う。こういうことは実生活でもある。たとえば、仲良しの友達が言ってくれる「似ている有名人」は、だいぶ恐れ多いぐらいすてきな有名人が多い。友達でも恋人でも、好意を持っている相手のことは良く見えるし、記憶の中でもちょっと美化される。昔は「○○に似てるね」と言われると否定したい気持ちに駆られていたけど、本当にその人に似てるかは些末なこと。友達や恋人が自分のことを好きで、ひいき目に見てくれていることが貴重で大事なことだと思うようになった。
中身でも見た目でも、ないものは際限なくねだれるけど、今あるものやもう少しで手が届きそうなものを大事にするのは難しい。でも私はないものをねだっているとき、今の自分を過度に否定してしまうから、意識的にそういう思考をやめている。逆境や劣等感をばねにしていける人なら、ないものねだりも大事な一歩なんだろうけど、私にはたぶん向いていない。向上心は、すぐに目に見える形じゃなくても、自分でわかっていればいいかなと思う。最終的には、「すべての人を満足させるために努力する必要はない」のタトゥーシール(メイク? 映画『7号室』より)を選んでも様になる人になれるといいな。
このところお家で仕事していて友達と話し込む機会もないから、思考が寄り道につぐ寄り道している。もう少し書きたいことがあったように思うけど、忘れた。