なんの変哲もない日

この田舎の犬は都会で死ぬかもしらん

思考の断片

以前ピースの又吉さんのエッセイを読んだときに、印象に残った話がある。又吉さんが太宰治の小説(たしか『人間失格』)を読み、自分以外にも頭の中で延々しゃべっている人がいるんだとうれしくなった体験がつづられていた。この話自体、少しわかるような気がして微笑ましかったのだが、記憶に残ったのは別の原因もある。この又吉さんの話を聞いて、当時一緒に住んでいた人が「自分は普段頭の中でしゃべっていない」と言ったのに驚いたのである。衝撃だった。しかも、その人は雄弁で話上手だった。曰く、考えたことを話すというよりは、話しながら考えるのだという。私と似たような生活スタイルで暮らしているようでいて、そんなところに違いがあったとは。驚きとともに記憶している。

私はといえば、なんでこうも頭の中の会議を止められないのかと時々面倒になるぐらい、何かしら考えている。過ぎたるは及ばざるがごとしと言うように、あまりにも考えすぎるのは、何も建設的に考えられていないのと同じではないかとも思う。ともあれ、そうした日頃の考えを部分的にでも整理する場所として、このブログが役立っている。

例えば今日考えたのは、もし今よりも人間的に成長し、感情のコントロールや気晴らしが上手にできるようになったとき、恋人を必要とするかどうか。もちろん恋人は自分の寂しさや人間的な弱さを支えるためだけの存在ではないけれど、そういう側面もやはり大きい。私には結婚願望がないため、恋愛は目標達成までの過程にはならない。もしも気の置けない親友とルームシェアを始めて、日々の不安や夜中のちょっとした寂しさを共有しあえる場ができたらどうだろう。そのとき、私は恋愛を必要とするだろうか。必要としないかも、と思う。何にも代えがたいと思っている関係のほとんどは、実は失ったときに何かで補えるのではないか。今恋人とは良好な関係だから、そんな風に考えるのは寂しい。でも、もし何かのきっかけで恋人を失うことがあれば、この考えは救いになるだろう。「もし」の多い話だけれど、そんな考えが頭の中を旋回していた。他にも色々あった気がするけど、毎日たくさん忘れている。